船明小学校跡地には当小学校の変遷が書き込まれている.分校として開校後,船明小学校に「昇格」したものの,山東小学校と統合して「船明教場」になり,その後閉校.なお,山東小学校もその後の統合で「光明小学校」に名称を変えており,なかなかややこしい.左の地図を見ると,佐久間線の線形が破線で表され,「旧佐久間線」と書かれていることから,あたかも佐久間線という路線が存在したように見えるが,未成線で終わっている.小学校同様,この変遷もややこしいが,この地図をみると小学校の北校舎,南校舎があった敷地に佐久間線が建設されたことが分かる.この敷地は前掲の「船明公会堂」の位置とほぼ一致していることから,一旦は鉄建公団の敷地になったものの,再び市に土地が返されたらしい.土地利用も非常にややこしい変遷を辿っているようであり,この記念碑からさまざまな歴史が読み取れる.(2016年5月20日記述)
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